「そうだ、あの村だ・・・・・・」



幸也は気づいた。横では、なちが怯えるように震えている。例えばここにいるのが幸也ではなかったら、きっと分からなかったはずだ。なちが怯えている理由など。小さな顔を青くして、丸っこい瞳から大粒の涙を流して、絨毯に染みを作っているその少女を、幸也は昔の思い出と重ねた。



「なー?」

幸也は呼び方を変えてなちの頭を撫でる。髪が揺れて、幸也の手を擽った。部屋には、湿気を多く含んだ空気と、冷たい沈黙が流れる。十数秒、なちは反応を返さなかったが、突然幸也の顔を見上げたかと思うと、潤いすぎた眼でこう言った。



「こーやくん・・・・・」

昔のように舌っ足らずな呼び方で。







幸也がこの街に越してきたのは、どちらかというと最近のほうだ。14歳の夏までは、幸也は小さな村に住んでいた。人との関わりが少ない村だったが、大人同士がないだけで子供同士の付き合いはあった。だが村に子供はほとんどいなかったし、幸也は村人となどほとんど喋ったことは無かった。コンビニやデパートなどなく、村にあった店は、小さな豆腐屋一つだった。海沿いにある村で、夏になると子供たちが海岸へ水と戯れに行く。幸也もその一人だったが、村でただ一人、外に出ない子供がいた。

それが、なちだった。

幸也は喋ったことも見たこともない、名前も知らないほとんど噂状態だったその少女のことを、はじめはほとんど気にしていなかった。だがある日、幸也は嫌でも彼女の存在を知ることになる。



それは、幸也がこの街に引っ越してる来る少し前のこと。14歳の梅雨の時期の事だった。雨ばかりで外にでられない幸也は、家の中で飼い猫と戯れて遊んでいた。その頃には既に幸也の両親は不仲で、幸也は自分のことは全て自分でやるようになっていた。

縁側で猫を撫でながら外を見ると、一人の少女が家の中庭に立っていた。その少女はこちらを見た時から、もしくはそのずっと前から何も言わずにじっと幸也と目を合わせ、棒のように突っ立っていた。雨が少女の服や髪を濡らしていって、少女の色素の薄い髪が頬にべったり貼りついていく。幸也は数秒目を合わせていたが、あ、と一声あげると家の中に走って戻り、タオルを持ってきた。そして自分が濡れるのも構わず庭に下り、少女の腕を引っ張って縁側まで連れた。少女は何も感じないように虚ろな目をしていながらも、口の端を少しあげてタオルでがしがしと自分の頭を拭く幸也に小さな声でありがとうと言った。幸也はそれを聞き取れなかったのか、濡れきったタオルをそこに置いて、もうひとつ乾いたタオルを取ってきた。



「きみだれ?」

2枚目のタオルもしっぽりと濡れきってしまったところで、幸也は手を止めて、目の前の少女に問いかけた。

「・・・・・なち・・・」

「なち?この村の子?」

「うん、はずれに住んでる」



そういえば村のはずれに、人付き合いの無いこの村でも一層村人の影を見ない屋敷があった。村に唯一つの洋風の家で、たくさんの名前の知らない花が植えてある。門があって、敷地はかなり広い。一度だけ中に入ってかくれんぼをしたことがあったのだが、あまりにも広すぎるのと、花が多すぎて子供の影など隠してしまうので全く見つからず結局取りやめになったほどだ。幸也は、あそこにはもう誰も住んでいないのだと思っていた。



「あのお屋敷の子?」

「そう。お花きれいでしょ?」

初めてにっこりと笑った少女に、幸也は少しどきっとした。でも幸也にはまだその感情がよく分からなかったので、そんなことはすぐに忘れてしまったのだが。

「あっこに人が住んでるとは思わんかった」

「だってわたし、あの家から出たのはじめてだもの」

「ずっと家ん中?」

「そう」

「まあ、あんなに広い家やもんな・・・・・」

同い年より少し幼く見えるなちの発言に、幸也はとても驚いた。一度も家から出ないなど、幸也には信じられなかったからだ。今こうして梅雨の時期のたった一日外に出られないだけでとても退屈していると言うのに。幸也はそこでなちの肌の白さに気付いて納得した。



「あなたの名前は?」

「幸也、幸せな子。全然幸せちゃうけど」

幸也は苦笑気味に言った。けれどなちは顔を輝かせてこう言い返した。

「ううん、とっても幸せだよ。だってわたしはあなたと会えたんだし、あなたはわたしと会えたわ」

「そっか・・・・・生まれてはじめての幸せかも」

「じゃあこれからもっともっと幸せになるわ」



なちは笑顔を輝かせてそう言った。純粋無垢な、本当に家から出たことがなさそうな少女で、幸也はなちに惹かれていった。そのまま、2週間が過ぎて梅雨があけた。その2週間の間、なちと幸也は毎日のように遊んだ。外で遊んだことがなかったなちは幸也がするどんなことにも驚き、関心を示した。幸也はそれはそれで楽しかったし、遊びを教えて毎日同じ遊びをしてもなちが飽きないのがよかった。屋外を除いた遊びは限られるので、幸也はいつも屋内での遊びを考えるのに苦労していたからだ。





梅雨が明けた一日目、なちは幸也の家に来なかった。いつも幸也の庭になちが来るのがここ2週間の習慣だったため、幸也は不思議に思った。梅雨があけたから家を出れなくなったのかな、という変な理由で、とりあえず一日目はいつもの村の友達と久しぶりに海辺で遊んだ。久しぶりに遊ぶ外はとても楽しくて、幸也は二日目と三日目もなちのことを忘れていた。



梅雨があけて四日目の日、なちは幸也の家の近くの大きな木の下に座っていた。いつものように遊びに行こうとした幸也がなちを見つけて駆け寄った。なちは眠るように木に凭れ掛かっていたが、幸也が頭に手を置くとすぐにぱっと目を開け、梅雨の時に遊びに来た様に「おはよう!」と元気に言った。少し見なかった間に少し痩せたかな、と幸也が暢気に思ったのも束の間で、なちが立とうとした瞬間、なちの白いワンピースにどす黒い赤が見えた。幸也は反射的にひっと声を裏返してなちから跳ぶように後ろに下がった。なちは不思議そうに幸也を見て、一歩近づいた。幸也はなちが近づいた一歩にびくりと肩を揺らし、声を震わせてなちを指差し言った。



「なー、それ何・・・?」

なーというのはなちのあだ名で、あだ名をはじめて付けられたとき、なちはとても喜んだ。それから幸也に「なー」と呼ばれる時はいつも決まって笑顔になった。だがそれは幸也が自分に好意を持って接してくれているという解釈から来ていたものであり、今の幸也は顔を青ざめさせて自分を指差し声を震わせている。どう考えても好意は含まれていない。なちは残念そうに眉を下げると、幸也が指差す自分を見た。正確には、下を向いて服を見た。

瞬間、なちは幸也と同じように青ざめ、まるで初めてそれを知ったかのように声にならない叫び声をあげた。幸也は怯えてなちに近づけずに、ただ冷静さを失って大声で泣くその少女を見守るしか無かった。幸也は初めてなちを怖いと思った。なちが怖いわけではないはずなのに、そのどす黒い血となちの狂乱さが、まだ子供心の残る幸也に怯えを植えつけた。



「うわあ・・っ・・・ぁ、あっ、・・・・・・・・」



突然、なちが動きを止めて、地面に倒れこんだ。突然死んだかのように反応をなくしたなちに、幸也は怯えを忘れて駆け寄った。一瞬死んだかと思ったが、よく見れば荒い呼吸を続けていた。一安心した幸也は、どうすればいいものかとなちを見た。幸也に上半身を支えられたなちは、ワンピースの血の部分を強く見せ付けている。幸也はできるだけそれを見ないようにして、片方の手でなちの頭を撫でた。苦しそうに息を続けていたなちだったが、今度は本当に死んだかの様に突然呼吸を止めた。え、と幸也が思う暇もなくもう一度呼吸を始めたが、それはもうさきほどまでの荒い呼吸ではなく、普通の正常な呼吸だった。そして呼吸を正常に戻すとともに目を開いて、幸也に向かってにっと笑った。



「ハロー、はじめまして。憂來といいます」

その笑顔は、明らかに今までのなちとは違った笑みだった。









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